愛をなくした大公は精霊の子に溺愛される
葉月めいこ
日常が変化した日・1
そこそこ長い人生、生きてきてあんなに驚いたことはなかったのではと、ロディアスは振り返るたび思う。始まりはいつもと変わらない時間を過ごしていた日の午後。
執務の合間にティータイムを過ごしていた時だった。家令であるシュバルゴの淹れた、果実入りのお茶を飲み、ふぅと息をついたのと同時だ。
少々せわしなく執務室の扉がノックされ、ロディアスはシュバルゴと顔を見合わせた。やって来たのは屋敷のフットマンで、普段は冷静で落ち着きのある青年なのだが、珍しく慌てた様子を見せた。多少のことでは動じない彼の顔を見るだけで、めったにないなにかが起こったのは明白だ。
「シュバルゴ? 来客か?」
応対しているシュバルゴの白い眉もひそめられ、ロディアスは思わず声をかける。
わずか前、彼が窓の外を気にしていたのは知っていた。けれどこの屋敷に執事は四人ほどいる。
家令であるシュバルゴがいちいち階下へ降りていく必要はない。彼はロディアスの侍従も兼ねているため、基本|主《あるじ》が優先なのだ。
「王都からの使者です」
「タウンハウスでなにかあったか?」
「申し訳ございません。私としたことが、著しく言葉が足りませんでした。王宮より使者が来ているようです」
「……王宮、か。ならば俺が対応しなくてはいけないな」
シュバルゴの返事を聞き、ロディアスの眉間にしわが寄る。
王宮――その響きだけで嫌な感情が胸の奥からせり上がってきた。思えば忌避して、二十年ほど王都へ赴いていない。もちろん理由がある。
だがいまは、建前でも王宮から来たという使者を待たせるわけにはいかないだろう。無意識に出たため息を飲み込むことはせず、ロディアスはしぶしぶと立ち上がる。
そして捲り上げていた袖を直し、シュバルゴが手にしたジャケットへ腕を通した。
主人の乱れた赤髪をシュバルゴが整えているあいだに、ロディアスは自身で窮屈なタイを結ぶ。
「国王から直々の書状? ますますいい気分がしないな」
使者がいるという玄関ホールへ向かう道すがら、軽く話を聞いて、ロディアスは肩をすくめた。
この世界には大きく分けて四つの種族、|人族《じんぞく》、獣人族、精霊族、|神族《しんぞく》が存在する。ハンスレット大公領があるのは人族の国、レイオンテール王国。内外に海があり、水の王国と呼ばれている、それなりに歴史の深い国だ。
現在の国王はルディル・レイオンテール。彼は今年三十八歳になったロディアスと同い年で、王家と大公家――近しい者同士ゆえか、勝手に敵愾心を持たれて、学生時代や軍役の頃は非常に面倒であった。思い起こすのも億劫なほどだ。
それは無意識に顔をしかめてしまうほどで、一歩後ろを歩くシュバルゴにコホンと小さく咳払いをされる。気づかぬうちに苛立ちを覚えていたロディアスはハッと我に返り、深く刻まれた眉間の皺を指先で伸ばした。
「よくないな。あいつの顔を思い出すとこう、ふつふつと怒りが湧く」
毒づきながら細められたロディアスの瞳は鮮やかな海色。しかし右目は濁った青灰色だ。元は左目と同じ色だったのだが、|戦《いくさ》で負傷し、色と光を失った。
王家の存在を思い出すと古傷が痛み、ロディアスは憂鬱になる。
「まさかまた戦でも起こすつもりだろうか」
「昨今、そういった話は聞こえてきておりませんが」
「そうだな。いっとき暴政だと騒がれたが、いまは大人しくしているようだし」
シュバルゴの言葉にロディアスは素直に頷いた。とはいえ戦以外でハンスレットに声がかかるなど、ロディアスはとんと覚えがない。
ハンスレット大公領は大きな港を有しており、国の最前線を預かり守護する立場だ。そのため大公領は軍船や海軍の所持を許され、戦だと言われれば一番に軍を動かさなければいけない。
大公家は国のため、王族のための盾であり、剣なのだ。
元を辿れば大公家と王家は交わる血筋だが、起源からあまり仲がよくないと聞く。前線に置き、いかなる時も命を賭けろというのだから、宿命の悪縁かもしれない。
「申し訳ない。待たせた」
玄関ホールに続く階段を下りて、ロディアスが使者の一行へ声をかければ、わずかにピリッとした緊張感が漂う。いまは現役を退いたが、以前は一線で軍を率いていたロディアスには貫禄がある。
右目に走る古傷が余計に厳めしく見えるのだろうか。玄関ホールにいる十数人の使者。その先頭に立っていた一人は、視線が合うとぴしりと背筋を伸ばした。
「ロディアス・ハンスレット大公閣下へ、国王陛下より書状を預かりました。勅命ゆえ、書面の内容を断ることは許されぬ、と言い付かっております」
「…………」
わざわざ前置きをしてくるあたり、ロディアスが断るのを見越していたのだろう。と言うことは緊急性のある内容ではない。憎らしい男の顔が再び思い出され、辛うじて浮かべていた笑みが剥がれ落ちそうになる。しかし後ろに控えるシュバルゴに二度目の咳払いをされた。
ここで苛立ちのままに醜態をさらしてもどうにもならない。仕方なしに苦い感情を胸に押し込めて、ロディアスは鷹揚に先を促す。
「勅命を承ろう」
ロディアスが緊張した面持ちの使者に頷き返せば、彼は背後から渡された巻物を解いて、しかと内容を読み上げた。
『来る春。マフィニー王子殿下の生誕を祝う宴を催す。ハンスレッド大公本人が祝い場へ訪れるよう――二十年ぶりの再会を待ちわびる』
(どの|面《つら》下げて待ちわびる、だよ。春までひと月ほどしかないだろうが。悪巧みしかしない頭は空洞か? ここをどこだと思っているんだ)
王都から遠く離れた大公領。明日からでも準備をしなければ間に合わないだろう。
(……マフィニーってことは、第二王子か。あまり噂を聞かないな。なぜわざわざ俺が、誕生祝いなんぞに顔を出さなくちゃいけないんだ)
心の中で悪態をつきながらも、ロディアスは深く頷き、快く勅命を受けたふりをする。シュバルゴから手渡された書状には確かに、いま読み上げた内容と国印が記されていた。
「ところで今回は随分と大仰な様子。これ以上になにか特別な用があるのだろうか」
確認した書状を丸め、ぽんぽんとそれで手を打つロディアスは、紙一枚、運ぶだけの使者にしては大規模な団体に視線を向けた。
本来なら応接の間へ通すだろう使者が、玄関ホールにいると聞いた時からおかしいと思っていたのだ。ロディアスの視線が使者団を見回すと、彼らのあいだに動揺の空気が拡がる。
「こっ、此度の一団には、実は……」
「実は?」
先ほどまでぴんと背筋が伸びていた使者の、しどろもどろな様子に、ロディアスは訝しげに目を細めた。書状のほかに、なにか厄介ごとを持ち込んだのでは、と口を開きかけた瞬間――団体の中から一人、背の高い人物が一歩前へ足を踏み出した。
反射的に身構えるロディアスと、その場にいたハンスレット家の面々だが、彼が突如発した言葉で気を削がれる。
「父上!」
「は?」
弾んだような、浮かれたような声は若い青年のものだ。深くローブを被っていた人物が、足早に自身へ近づいてくるのがわかり、呆気にとられていたロディアスは再び警戒をした。
しかしはらりとフードが後ろへ落ち、姿があらわになると身動きができなくなる。美しい金糸の髪。宝石の如く輝く緑色の瞳。それは王家直系の者に表れる容姿の特徴だ。
けれどそれ以上にロディアスの目を奪ったのは、青年のまばゆいばかりの容貌だった。
「アウローラ?」
ぽつんとロディアスの口からこぼれた名は、かつての恋人の名前。そしてレイオンテール国・現王妃の名前でもあった。
「お会いできて嬉しいです。父上!」
「俺にお前のような息子はいない!」
「お初にお目にかかります。僕はリュミザ。あなたの息子です」
とっさに言い返したロディアスに向け、にっこりと花が綻ぶように微笑んだ彼は、確信に満ちた表情を浮かべている。
忘れようと封じ込めていた過去の記憶が噴出し、奔流に流されるようにロディアスの内側に拡がっていく。目の前に現れた、かつての恋人と瓜二つの青年。
彼の出現により、二十年も錆び付いて動かなかった時の針が鈍い音を立てて動き出した。